この英語のことわざの意味は、「だらだら説明するより実際に見せたほうが良い」ということです。一方、日本語訳の「百聞は一見に如かず」は「同じことを百回繰り返すより一見した方が確実」という若干違うニュアンスで解釈されます。
これを更に突き詰めて考えると、「情報理論」の様々な概念が絡んでいることがわかり、とても面白いです。
まず、日英のニュアンスの違いに注目します。英語版では「情報量」という概念が根底にあります。つまり、「一つの画像か、1000単語の文章か、情報量が多いのはどちらか」という問題に帰着します。単純でドライな考え方として画像1枚と1000単語のテキストに含まれるビット数という尺度も考えられますが、その場合は画像やテキストに含まれる「意味」は考慮されていません。より現実的な比較をするとしたら、例えば気象情報を伝えるための手段として、1枚の天気図と1000単語のテキストを比較することなどがあげられます。
一方、日本語訳のニュアンスについて考えてみます。「百聞」の伝統的な解釈は「同じことを100回繰り返す」ということですが、情報理論の観点では同一メッセージを100回送信することに相当します。一方、メッセージが同じであれば情報量そのものは何回送信しても変わりません。このことわざの場合、元々のメッセージに問題があるということになります。
ここで、ことわざの本来の意味から少し逸れますが、同じメッセージを100回繰り返すことにどんな意味があるか考えてみます。もう一度情報理論に戻りますが、「情報量」ではなく、「信頼度」という概念が登場します。デジタル情報伝達システムには「ビット誤り」が一定の確率で起こりますが、それを考慮してどのビットレート(単位時間当たりのビット数)の通信が可能か定式化することができます。また、ビットレートを犠牲にして信頼度を高めるための手法として、メッセージに冗長性を付与する方法(誤り訂正符号など)があります。上記のことわざを情報理論に無理やり当てはめると、「チャンネルの信頼度を上げても、もともとのメッセージの情報量が少なかったため、画像に含まれる情報量より少ない」といったマニアックな解釈が可能です。
また、二つのことわざに共通しているのは「可視化」という概念です。「一見」するというのは一瞬にして情報を知覚することですが、複雑な概念も視覚的にわかりやすく表現することはしばしば求められます。また、音声の中に含まれている情報を視覚化することも次第に重要になってきています。古いことわざがいよいよ実際に試される時代が到来したようです。