「音と話しことば」

今、私の目の前で、ドアがバタンと音をたてて閉まりました。このことを、私が別の人に話したとします。「さっき、ドアがバタンと大きな音をたてて閉まったのだけど、その音がうるさくて近所迷惑だから何とかして下さい。」

さて、前者の「バタン」と、後者の「バタン」、どちらも字に書き表すと同じ「バタン」ですが、両者は全く異なった次元の「バタン」なのです。つまり、前者はドアが閉まったときに自然に発せられた「音」であり、空気の波動です。空気の波動は四方八方へ広がります。我々は常に様々な空気の波動を受信していますが、その中の一部を「ことば」として聞き分けているのです。その結果が、後者の「バタン」であり、これは立派な擬音語であり、「ことば」です。今、私はドアが閉まる音を「バタン」と表現しましたが、人によってはこれを「バン」とか「ガシャン」とかの異なった表現をするかも分かりません。

音源は同一であるにも関わらず、受け取り手によって異なる表現になりうることからも、ドアが閉まる時に発せられた「バタン」という音と、私が別の人に話した「バタン」が異質のものであることが分かると思います。

別の例を考えてみましょう。(今度はもっとグローバルな例です。)私はよく犬に吼えられますが、この犬の鳴き声、日本人は大抵「ワンワン」と表現します。アメリカへ旅行に行ったことのある友人によると、アメリカの犬も皆「ワンワン」と吼えていて、「バウワウ」と吼えている犬は一匹もいなかったそうです。ところが、同じ犬の泣き声をアメリカ人は「バウワウ」と表現します。この場合、犬が吼えた瞬間に発せられた空気の波動は同一です。その空気の波動を受け取った人が「ことば」として聞き分ける際に、その人の母語のプロソディの影響を受け、上記のような異なった音の「ことば」に表現されます。

つまるところ、空気の波動として誕生した瞬間は全て「音」であり、受け取り手がいて、彼がその空気の波動を「ことば」として聞き分けて初めて「ことば」になると言えるのでしょう。たとえ文字に表したときに同じように見えても「音」と「ことば」は異なったものです。

(裕)